三里塚闘争はなぜ始まり今も続く?成田空港建設の経緯と2026年最新の実態を徹底解説
三里塚闘争(成田闘争)は、なぜ始まり、成田空港が開港した後もなぜ完全には終わっていないのでしょうか。その出発点は、1966年7月4日に政府が決定した新東京国際空港の建設計画と、土地を生活の基盤としてきた農民との深刻な対立にあります。戦後開拓によって農地を切り開いた住民にとって、空港建設は単なる公共事業ではなく、長年築いてきた暮らしそのものを左右する問題でした。
2026年10月現在、成田空港ではさらなる機能強化に向けた滑走路整備が進められる一方、未取得用地をめぐって土地収用制度の活用に向けた手続きも動いています。過去の三里塚闘争と現在の空港拡張問題は同一ではありませんが、土地の権利、騒音への懸念、地域住民との合意形成という共通の課題を抱えています。成田空港建設反対運動の歴史から、反対派が今も残る理由、そして公共事業が地域社会に残した教訓までを整理します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 三里塚闘争が始まった理由:1966年の空港建設決定に対し、農地の喪失や騒音、住民への説明不足に不安を抱いた農民らが反対運動を組織した。
- 闘争が長期化した背景:土地収用をめぐる衝突や運動内部の分裂、国との不信感が重なり、1978年の開港後も対立の一部が残った。
- 2026年の最新状況:成田空港の機能強化事業では用地取得が続き、C滑走路区域をめぐって土地収用制度の活用に向けた準備が進められている。
【三里塚闘争の理由】戦後開拓の農地はなぜ空港建設の対象になったのか
三里塚闘争の背景を理解するには、1966年の空港建設計画だけでなく、地域がどのように形成されたのかを知る必要があります。三里塚周辺は、もともと空港建設を前提に整備された土地ではありませんでした。
1946年の戦後開拓が地域の歴史を形づくった
第二次世界大戦後の1946年、戦後開拓政策の一環として、御料牧場の敷地のうち約1000町歩が農地として開放され、県有林の一部も払い下げられました。三里塚周辺では、こうした土地を開墾して農業を営む人々が暮らしを築いていきます。
入植者には、敗戦による引揚者、沖縄出身者、農家の長男以外の子息など、生活基盤の再建を必要としていた人々が含まれていました。開墾は、単に土地を耕す作業ではありません。農地を整え、住居を確保し、収入を得られるようにするまでには、時間と労力が必要でした。
そのため、空港建設によって農地を手放すことは、土地の売買だけでは片づけられない問題でした。農業を続ける権利、生活の見通し、地域で築いてきた人間関係までが影響を受けたからです。戦後開拓の歴史を抜きにすると、なぜ農民たちが強く反発したのかを十分に理解できません。
1966年7月4日、政府が新空港の建設地を決定
1960年代、経済成長に伴って航空需要が増加し、羽田空港の処理能力が将来的に不足すると予測されていました。政府は首都圏の新たな国際空港を検討し、1963年には富里村を候補地として内定しました。しかし、富里周辺でも反対運動が強まり、計画は再検討されます。
その後、政府が新たな候補地として示したのが、千葉県成田市三里塚を中心とする地域でした。1966年7月4日、佐藤栄作内閣は「新東京国際空港の位置および規模について」を閣議決定し、建設地を正式に決めました。
成田空港の建設は、首都圏の航空需要に対応する国家的な計画でした。一方、現地では土地を所有・耕作する住民の生活がかかっていました。政府が計画を決定する過程で、地元の意見を十分にくみ取り、住民の納得を得る手順が不足していたことが、その後の深刻な対立につながります。
農地の喪失、騒音、説明不足が反対運動を広げた
反対理由は、農地を失うことだけではありませんでした。空港が完成すれば航空機の騒音が生活環境に影響する可能性があり、周辺の道路や地域の将来像も変わります。移転や補償をめぐる不安もあり、住民にとって計画は日常生活に直結する問題でした。
こうした状況を受け、反対住民は1966年夏に三里塚芝山連合空港反対同盟を結成し、建設反対運動を組織化しました。当初の運動には、集会や陳情、土地を守るための行動など、農民自身の生活を守ろうとする動きがありました。
ここで押さえたいのは、三里塚闘争を単純に「空港に反対する人々と、空港を必要とする政府との争い」とだけ捉えないことです。国全体の利益と地域住民の利益が衝突した際、誰が計画を決め、誰が負担を引き受けるのか。その問いが、闘争の根底にありました。

【成田闘争の歴史】1966年から2026年までの経緯を年表で整理
三里塚闘争は、建設計画への反対から始まり、土地の強制収用をめぐる衝突、開港阻止運動、そして話し合いによる解決の模索へと展開しました。現在の状況を理解するためにも、主要な出来事を時系列で確認しておきましょう。
| 時期 | 主な出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1946年 | 戦後開拓により三里塚周辺で農地開放・入植が進む | 農業と生活を基盤とする地域が形成される |
| 1966年7月4日 | 新東京国際空港の建設地を閣議決定 | 地元住民との対立が深まる契機となる |
| 1966年夏 | 三里塚芝山連合空港反対同盟が結成される | 住民による組織的な反対運動が始まる |
| 1971年 | 土地収用をめぐる第一次・第二次の代執行が行われる | 住民側と機動隊などの衝突が激化する |
| 1978年5月20日 | 成田空港が開港 | 反対運動が続くなか、A滑走路1本で供用を開始する |
| 1991~1994年 | 成田空港問題シンポジウムと円卓会議を開催 | 対立を話し合いで解決する枠組みが形成される |
| 2004年4月1日 | 空港公団の民営化に伴い、成田国際空港株式会社が発足 | 空港の正式名称も成田国際空港となる |
| 2018年3月 | 空港のさらなる機能強化について四者協議会で合意 | 滑走路の新増設に向けた地域協議が進む |
| 2026年7~10月 | C滑走路区域の土地収用制度活用に向けた準備が進む | 任意取得の継続と法定手続きの準備が並行する |
成田国際空港株式会社の沿革資料、成田空港「空と大地の歴史館」の記録、国土交通省の資料などを照合すると、闘争の歴史には大きく三つの転換点が見えてきます。第一は1966年の建設地決定、第二は1970年代の土地収用をめぐる激しい衝突、第三は1990年代に始まった対話による解決への転換です。
1971年には、建設予定地の土地収用をめぐって第一次・第二次の代執行が行われ、反対派住民と機動隊などが衝突しました。建設計画を進める側と土地を守ろうとする側の対立は、地域社会に深い傷を残しました。
1978年5月、成田空港は当初の予定から遅れ、A滑走路1本で開港しました。しかし、空港が開港したことは、土地をめぐる争いや住民の不満がすべて解消されたことを意味しません。開港後も二期工事や未取得用地をめぐる問題が残り、対立は形を変えて続きました。
【三里塚闘争の真相と実態】農民の運動はなぜ激しい闘争へ変わったのか
三里塚闘争の実態を理解する際に注意したいのが、農民による生活防衛の運動と、そこに加わった政治運動を区別することです。両者は重なり合いましたが、最初から同じ目的を持っていたわけではありません。
出発点は土地と生活を守るための反対運動
建設計画の初期段階では、住民による反対決議や集会、陳情・請願などが行われました。反対同盟は土地を守るために団結し、予定地内に団結小屋を設けたり、土地を細分化して共有する「一坪運動」などを展開したりしました。
こうした行動の根底にあったのは、農地を失うことへの危機感と、住民の意思を置き去りにして計画が進むことへの反発です。土地を手放すかどうかは、行政が提示する補償額だけでは決められない問題でした。
新左翼活動家の参加と運動の変化
1960年代後半から1970年代にかけて、反戦運動や学生運動を背景とする新左翼系の活動家が現地に入り、反対運動を支援するようになります。彼らにとって成田空港建設は、地域の土地問題にとどまらず、国家権力や日米安全保障体制を批判する政治的な争点でもありました。
その結果、住民の生活防衛と政治運動が結びつく一方、反対運動の手法も変化しました。建設を阻止するための実力行使や、団結小屋・鉄塔などをめぐる攻防が激化し、建設側との衝突によって死傷者が出る事態に至りました。
ただし、三里塚闘争を「過激派による運動」とだけ説明するのも、実態を見誤る原因になります。運動の出発点には、実際に土地を所有・耕作し、生活への影響を受ける住民の反対がありました。一方で、反対運動のすべての参加者が同じ考えを持っていたわけでもありません。
反対派の内部にも意見の違いが生まれた
闘争が長期化するにつれて、住民や支援者の間では、運動の進め方や今後の解決策をめぐる考え方の違いが表面化しました。条件を整えて空港と共存する道を探る立場と、建設そのものを認めない立場との隔たりは大きく、反対同盟の分裂にもつながりました。
この点は、三里塚闘争の長期化を考えるうえで重要です。反対運動が一つの集団として一貫していたのではなく、住民の事情や政治的な立場、時間の経過によって目指すものが変わっていったからです。
つまり、三里塚闘争の真相は、単純な善悪の対立では説明できません。公共事業を推進する側の責任、土地を失う住民の権利、外部の政治運動が地域にもたらした影響、そして長期化によって生じた住民間の亀裂を、分けて考える必要があります。

【成田空港反対派はなぜ今も残る?】住民合意後も終わらない理由
「成田空港はすでに開港しているのに、なぜ反対派が残っているのか」という疑問は、三里塚闘争を知るうえで避けて通れません。空港が開港し、地域の多くが空港との共存や地域振興に向けた取り組みを進めても、すべての地権者や反対派が同じ結論に達したわけではありませんでした。
空港の敷地内外に残る土地と、個々の権利
成田空港の敷地は、当初の計画どおりにすべて取得されたわけではありません。建設に反対する地権者が土地を手放さなかったことなどから、空港の敷地やその周辺には、一般的な空港の境界とは異なる形で民有地が残る場所があります。
こうした土地の存在は、反対派が今もいる理由の一つです。空港の内側や周辺に土地を持つことは、単に空港の運用に影響を与えるという問題だけではありません。土地の所有権をどう扱うのか、所有者がどのような条件で手放すのかという問題でもあります。
ただし、空港内に民有地が残っているという事実だけで、その所有者全員が現在も同じ政治的立場で反対運動を続けていると判断することはできません。土地を所有し続ける理由や、空港との関係は個々の事情によって異なります。
1990年代の話し合いは、すべての反対を解消したわけではない
対立を転換するきっかけとなったのが、1991年11月から1993年5月まで計15回開催された成田空港問題シンポジウムです。国、千葉県、空港公団、反対派などが参加し、空港建設をめぐる歴史的経緯や土地収用の問題について議論しました。
その後、1993年9月から1994年10月まで計12回の円卓会議が開かれました。話し合いの結果、土地収用裁決申請の取り下げや、空港と地域の共生を目指す枠組みづくりなどが進められました。
この転換は、長年の対立を解決するうえで大きな意味を持ちました。しかし、対話による解決の枠組みができたことと、すべての住民・地権者が空港建設に賛成したことは別です。地域全体で合意形成を進めても、個々の土地所有者の意思や、過去の対立に対する評価まで一律に変わるわけではありません。
現在の反対運動と、空港拡張をめぐる問題は区別して考える
2026年現在、三里塚闘争を引き継ぐ反対派の活動が続く一方、空港周辺では騒音対策や土地取得、滑走路の新増設をめぐる協議も進んでいます。これらは歴史的につながっていますが、すべてを一つの運動として扱うと、現在の問題を正確に捉えられません。
過去から続く反対運動には、空港建設への根本的な異議申し立てや、土地を守るという意思が含まれています。一方、現在の機能強化をめぐる議論には、航空需要への対応を求める立場、騒音などの生活環境への懸念、相続や移転を含む個別の土地事情など、複数の論点があります。
「住民合意」という言葉も、意味を慎重に捉える必要があります。自治体間の協議で事業の方向性が確認されても、それが全住民の賛成や、すべての地権者との契約成立を意味するわけではありません。成田空港の問題は、地域全体の合意と個々の権利との関係を考える事例でもあります。
【2026年最新】成田空港の機能強化と土地収用をめぐる現状
2026年10月現在、三里塚闘争の歴史を振り返るうえで重要なのが、成田空港のさらなる機能強化事業です。空港ではB滑走路の延伸と新たなC滑走路の整備が進められていますが、必要な用地をすべて任意の交渉で取得できているわけではありません。
用地取得率は2026年6月末時点で90.4%
千葉県が2026年7月10日の四者協議会の結果として公表した資料によると、成田空港のさらなる機能強化事業全体の用地確保率は、2026年6月末時点で90.4%でした。
内訳については、2026年4月時点でB滑走路延伸部の必要用地が99.5%確保されていた一方、C滑走路区域は88.7%にとどまっていました。全体の取得率が高まっても、残る土地の取得が難航すれば、事業全体の進捗に影響することになります。
同資料では、空港会社が地権者への説明や交渉を続け、住民説明会などを400回以上実施してきたことも説明されています。用地取得には、事業に理解が得られない場合だけでなく、相続人との協議が進まないなど、個別の事情による課題もあります。
2026年7月、土地収用制度の活用をやむを得ないとする判断
2026年7月10日、国土交通省、成田国際空港株式会社、千葉県、空港周辺の9市町による四者協議会で、C滑走路区域について、任意での用地取得を続けながら土地収用制度を活用することをやむを得ないものとして受け止める方針が確認されました。
土地収用制度は、公共事業に必要な土地について、法律で定められた手続きを経て取得できるようにする仕組みです。土地所有者の意思にかかわらず取得に至る可能性があるため、財産権との関係や、手続きの公正さが問われます。
この判断は、すべての地権者が用地提供に同意したことを意味しません。むしろ、話し合いによる取得を続けても解決が難しい土地が残っていることを示しています。千葉県の公表資料や国土交通省の説明でも、任意取得に向けた交渉を継続し、地域の理解を得る努力を続ける姿勢が示されています。
2026年10月19日、事業認定申請前の説明会を公表
さらに、成田国際空港株式会社は2026年10月19日、C滑走路区域の整備事業について、土地収用法第15条の14に基づく説明会を開催すると公表しました。これは、土地収用制度を利用するための事業認定申請に先立ち、事業の目的や内容を説明する手続きです。
つまり、2026年10月時点の焦点は、土地収用に関する手続きがすべて完了したということではなく、未取得用地をめぐる交渉を継続しながら、法定手続きの準備が進んでいる点にあります。説明会の開催や事業認定の判断、その後の用地取得は、それぞれ区別して見る必要があります。
成田空港の拡張を推進する側には、国際航空ネットワークや物流機能を強化したいという目的があります。他方、土地を手放すことに同意していない地権者や、騒音などの影響を懸念する周辺住民には、それぞれの生活や権利があります。事業の必要性だけでなく、負担が誰に集中するのかという視点が、今後も問われます。

【公共事業の教訓】三里塚闘争が示した住民合意形成の難しさ
三里塚闘争が日本の公共事業に残した教訓は、計画の必要性を説明するだけでは、地域住民の納得を得られるとは限らないということです。事業の規模が大きく、国全体への利益が期待される場合でも、影響を直接受ける人々の権利や生活を軽視すれば、長期にわたる対立を招く可能性があります。
1991~1994年の対話が示した転換点
1990年代初頭、成田空港問題を話し合いで解決する機運が高まりました。1991年から1993年にかけてのシンポジウムでは、過去の経緯を検証し、国側が土地収用裁決申請を取り下げることなどが提起されました。続く1993~1994年の円卓会議では、空港と地域が共存するための考え方が議論されました。
こうした過程で重要だったのは、単に補償条件を調整するだけでなく、過去の意思決定や対立の経緯そのものを議論の対象にしたことです。地域住民が何に反発し、どのような点で行政を信頼できなくなったのかを検証することが、対話を再開する前提になりました。
説明会の回数だけでは合意形成の成否を測れない
2026年の機能強化事業でも、空港会社は400回を超える住民説明会などを実施したと説明しています。説明の機会を増やすことは必要ですが、回数が多いことだけで合意が成立したと判断することはできません。
公共事業の合意形成では、少なくとも次の点を検討する必要があります。
- 計画を決める前に、影響を受ける住民が意見を述べられる仕組みがあったか。
- 土地の取得条件、移転支援、騒音対策などについて、具体的な情報が示されているか。
- 反対意見や個別事情に対し、事業主体が実質的な代替案や対応策を検討しているか。
- 地域全体の合意と、個々の地権者の権利を混同していないか。
- 事業開始後も、環境への影響や約束した対策の実施状況を継続的に検証できるか。
これらの条件が整わなければ、説明会は開催されても、住民側が「自分たちの意見によって計画が変わる可能性はない」と感じる事態が起こり得ます。合意形成は、説明する側が情報を伝えるだけの一方向の作業ではありません。意見を受け止め、必要に応じて計画を修正し、決定の理由を説明する双方向の過程です。
空港の必要性と、地域が負担するコストを同時に考える
成田空港は、国際旅客輸送や貨物物流を支える重要なインフラです。その機能を強化することには、国際競争力や地域経済の観点から一定の政策的意義があります。しかし、広域的な利益が生まれる一方で、騒音や土地の取得、移転といった負担が特定の地域に集中することもあります。
この利益と負担の偏りをどう調整するかは、成田空港だけに限らない公共事業の課題です。事業の必要性を主張することと、影響を受ける人々の意思を尊重することは、両立させなければなりません。
三里塚闘争が長期化した経緯は、計画の決定段階で地域との対話を十分に行わなかった場合、その後に多大な時間と社会的コストを要することを示しています。2026年の用地取得問題も、法的手続きだけでなく、地域との信頼関係をどのように維持するかという課題を改めて浮かび上がらせています。
【三里塚闘争】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三里塚闘争はなぜ始まったのですか? A1:1966年7月4日に政府が新東京国際空港の建設地を閣議決定したことが直接の契機です。農地を失うことへの不安、騒音など生活環境への懸念、計画決定までの住民への説明や合意形成が不十分だったことなどが重なり、農民を中心とする反対運動が始まりました。
Q2:成田空港が開港したのに、なぜ反対派は今も残っているのですか? A2:開港によって空港の運用は始まりましたが、すべての土地が取得されたわけではなく、反対する地権者や住民、支援者の活動も残りました。土地の所有権や過去の経緯に対する考え方は人によって異なります。また、現在の空港拡張問題にも、用地取得や騒音などの課題があります。
Q3:2026年現在、三里塚闘争は終わっていないのですか? A3:歴史的な反対運動を引き継ぐ活動は続いています。一方、現在の成田空港では機能強化事業に伴う土地取得や地域協議も進んでいます。2026年10月には、C滑走路区域について土地収用法に基づく事業認定申請前の説明会が公表されました。過去の闘争と現在の拡張問題はつながっていますが、同一の問題として一括りにせず、個別の状況を確認することが大切です。
【プロの結論】三里塚闘争から学ぶべきことと今後の見通し
三里塚闘争は、1966年の成田空港建設決定をきっかけに、農地や生活を守ろうとする住民の反対運動として始まりました。その後、新左翼活動家の参加や土地収用をめぐる衝突、反対同盟の分裂などを経て、1990年代には話し合いによる解決を目指す転換点を迎えました。それでも、空港の開港だけですべての対立が解消されたわけではありません。
2026年現在の成田空港では、さらなる機能強化という新たな課題のもと、用地取得と土地収用制度の活用に向けた手続きが進んでいます。事業の必要性が認められることと、個々の地権者が土地の提供に納得することは別の問題です。今後も、法定手続きの適正さ、騒音などの環境対策、個別の土地事情への対応が焦点になります。
三里塚闘争を理解する際には、「空港建設に反対した人々」と「空港の発展を望む人々」という二つの立場だけで判断しないことが重要です。戦後開拓によって農地を築いた歴史、国家的な公共事業の必要性、住民の財産権、政治運動の介入、そして対話による解決の試みを、時系列に沿って捉える必要があります。
最大の教訓は、公共事業の成否を施設が完成したかどうかだけで判断できないという点です。地域にどのような負担が生じたのか、住民の意思がどの程度計画に反映されたのか、事業主体が信頼を回復するために何をしたのか。こうした問いを継続して検証することが、同じ対立を繰り返さないための条件となります。
三里塚闘争は過去の歴史であると同時に、2026年の成田空港をめぐる議論にもつながる問題です。空港の発展と地域の暮らしを両立させるには、計画の必要性を説明するだけでなく、土地を持つ人、周辺で暮らす人、広域的な利益を受ける人、それぞれの立場を踏まえた合意形成を続ける必要があります。 (出典: 三 里塚 闘争(Yahoo!ニュース))